2017年7月9日日曜日

聖書研究「安息日」


週制度の歴史

世界の創造から新世界に至る迄の第7日目安息日を辿る

1.       週制度の起源 創世記2:1-3 神は創造週の終り第7日目に安息日をお立てになり、それをアダムとエバにお与えになった。人類の祖に与えられたことはユダヤ人に限らず全人類のために設けられたことを意味する(マルコ2:27参照)。

2.       出エジプト記16:4.22-30 紀元前1500年頃、出エジプトを果たしたイスラエルの民は、第7日安息日にマナを集めないようお命じになった。それはシナイ山で十戒(出エジプト記20:3-17参照)を賜わる6週間前のことである。その後、乳と蜜の流れる地カナンに入るまでの40年間、彼らは天からのマナをもって安息日の聖別意識が養われた。

3.       イエスの承認 ルカ4:16「イエスは「いつものように」教会へ出席された。イエスは創世記をはじめとするモーセの五書を神の霊感による啓示の書として認めておられた。事実、神のみ言葉として旧約聖書から多くの引用をされた。また、十字架の死とそれに続く昇天の前に、主は弟子たちと群衆に、40年後に起こるローマ軍によるエルサレム滅亡(紀元70年に起こった)に際し、「あなたがたの逃げるのが冬または安息日にならぬよう気を付けなさい」と警告された。

4.       金曜日は準備の日 ルカ23:54-56 ルカが福音書を記録した年代はキリスト復活後30年を経ていたが、週制度を当然のこととして記録した。イエスは金曜日に十字架に掛けられたが、彼の葬りの墓まで見届けた群衆は、準備の日だったので、おきてに従って安息日を休んだ。彼らの週の数え方は、日曜日を「週の第1日目」、月曜日を「週の第2日目」と言い、六日目は「準備の日」と呼んだ。ヘブル語の「週」は「7」を意味する語根から来ている。マタイ28:1-7.安息日は墓の中で休まれ、週の第1日目に復活された。

5.       使徒行伝13:14-16,27,42,44 紀元31年のペンテコステ(聖霊降臨)以後、イエスの弟子たちもパウロも安息日には会堂で聖書朗読をし、また伝道説教をした。パウロは伝道旅行の間に多くの書簡を設立教会に送っている。それらはキリスト復活後65年以内である。安息日に関して、この間に異変があったことを示す出来事は一切なかった。

6.       ユダヤ人の暦の歴史:安息日はユダヤ人生活の中心であった。安息日がなければユダヤ教は存続せず、ユダヤ人の歴史も消滅していたことであろう。ユダヤ人の間で、「安息日がイスラエルを守った」という格言がある。だからユダヤ人は安息日を守るのに命懸けであったことが覗われる。現代の宗教的でないユダヤ人でも、安息日には家族・友人たちが集い、食を共にし、語らい、踊り、固有の伝統を守る。ユダヤ人にはいろいろの祝祭日があるが、第7日目の安息日は十戒に書かれている。

7.       捕囚民と共にあったエゼキエル(紀元前6世紀頃)。イスラエルの背教の顕著なしるしは、安息日の軽視または無視(エゼキエル22:8,26;20:20)であったとされている。完全な安息日遵守の民をエレミヤは未来のイスラエルに見ていた。捕囚時代とこれに続く中間時代(旧約と新約の間の時代)を通じてユダヤ人は、厳格な安息日遵守へと傾斜していった。その傾向は、新約時代のユダヤ国民の「安息日」の考え方に見る事ができる。

8.       週制度についての歴史的解説 「7日という時の単位は、太古の時代からほとんどすべての東洋諸国において用いられ、東洋から西洋に広がっていった」(大英百科事典”カレンダー”の項)。
 「人類の発祥地と考えられている地中海とユフラテ河に囲まれた地域に私どもは人類の最も古い文化と制度を見出すのですが、その中にすでに週制度が存在しています」(「真理への道」山形俊夫著190頁 福音社発行)

9.       紀元前約400年~紀元前67年頃(ローマ帝国樹立) セレウカス王朝アンティオコス・エピファネス4世は、ユダヤを攻めるにあたって安息日の礼拝日に狙った。戦略的に有利に働いたからである。この間も週制度に異変がなかったことを物語る。

10.  紀元前5世紀、エジプトのユダヤ人コロニーにおいて傭兵達は上エジプトのナイル川の島エレファンティンに住んでいた。20世紀初頭、古代パピルスの収集物がそこで発見された。後日にはもっと多くのパピルス、彫刻のある陶器の破片が見つかった。これらはすべてアラム語で書かれていたが、当時のユダヤ人によって使用された文字であった。それらの多くは日時が記され、エズラ、ネヘミヤ時代に相当していることが判明した。これらの文献は、エレファンティンのコロニー(入植者)生活の様子を伝えている。これによれば、ユダヤ人達は、真の神への礼拝と偶像礼拝の混合を示している(SDAコメンタリー9巻1108頁)。安息日については、発見当初、パピルスのどれにも言及されておらず、したがって学者たちは、休みの日としての安息日は守られていなかったのだろうと考えた。しかし、1940年に、陶器を詳しく調べると、特にその内の4つは休みの日としての安息日について言及していることが判明した。たとえば、一つは次の言葉で始まる、「Yislahに挨拶を送ります。今、ご覧ください。明日は瓶を送りません。明日は安息日、牛が迷わないようにしっかり繋ぎます。主は生きておられます」(A.デュポン・ソマー:フランスによる出版、1950年3月23日レビューアンドヘラルド127:10)。
    厳格な安息日順を含むエズラ&ネヘミヤの改革命令に従うことを選んだことは十分考えられる。他方、偶像礼拝ユダヤ人の中には安息日を守る者もいたか、あるいは無視したかである。その時代のユダヤ人が度々経験した問題は、ネブカデネザル王の時代にユダヤ人が直面したことと同じである。アガサルキデス(前2世紀)という書からの引用で、ヨセファスは、BC300年頃の記録から、プトレミー1世が、安息日にエルサレムを占領する戦略を選んだ事に言及している。ユダヤ人はこの日に戦わなかったからである(ヨセファス「ユダヤ戦記」9巻9:12)。
 
11.  日曜日~土曜日の呼称の起源 古代バビロンの占星術から起こったとする説がある。グレコバビロニア(アレキサンダーの時代)東方征服後、太陽と月と肉眼で見える五つの星は神々の名において呼ばれた。神々の順序は地球からもっとも遠い土星に始まり、内側へと進む。24時間後、翌日の第1時間目の主神は、3つ前(あるいは4つ後)の太陽となる。以下、順に土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星、そしてまた土星が各日の守護神となる。第1時間目の守護星は、同時にその日一日の主神とされ、その日は守護星の名をもって呼ばれる。これを繰り返し1時間目の主神の星を並べると土日月火水木金となる。世界の至る所で太陽崇拝が中心であった(天動説)ためで太陽が神々の主神と考えられ、日曜日が第1日目に数えられた。

12.  紀元2世紀の元老院ディオ・カシアス(ローマ史)によれば、ヘロデ大王の時代BC38年の初期に安息日について知られていた。すなわち、ユダヤ人は土星の日(第7日目)に休んでいたと記録した。これは聖書の週と異教の週が同時に並行していたことを示している。ローマの歴史家タキトゥスは「ユダヤ民族の起源を土星の神」と結びつけ、そのために土星の日に休む、と言っている。

13.  聖書が「週の初めの日」と告げている日は、異邦人の太陽の日と呼んだ。「日曜日」という語では聖書には出てこない。「週の初めの日」8回。①マタイ28:1 ②マルコ16:2③マルコ16:9 ④ルカ24:1 ⑤ヨハネ20:1 ⑥ヨハネ20:19 ⑦使徒20:7 8コリント第1,16:2.このうち6回は復活についての言及である。

14.  「祭司たちの会議場の屋根の上で…祭司の一人が立ち、ラッパの音で注意を喚起し、また、これに続くその日の終わりの夕方、毎安息日、仕事を休む時間、仕事を再開する時間を人々に通告した」(SDAコメンタリー190頁)。

15.  6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグス:復活祭暦表でローマ建国紀元754年を、イエス・キリスト生誕1年とする西暦紀元から計算され採用された。10世紀頃一部の国で使われ始め、西欧で一般化したのは15世紀以降である。

16.  ユリウス暦からグレゴリオ暦へ:ユリウス暦は紀元前45年から1582年まで用いられた。ユリウス暦では暦上の春分日と実際の春分日とのずれが顕著(16世紀時点で10日間のズレ)、復活祭の日付の計算が正しくない事が無視できなくなった。ローマ法王グレゴリウス13世により1582年2月24日グレゴリオ暦を発布。10月4日(木)の翌日を1582年10月15日(金)とした。週制度に何の差し障りはなかった。その年から10日間を削除した理由は、AD325年ニカヤ会議で復活祭がその時期に適合するよう定めていたことである。春分後に起こる最初の満月後の最初の日曜日に復活祭が守られるべきである、とその会議は布告した。復活の日が春分に決められた時は3月21日であった。AD325年以降、1200年以上が経過した。その間、春分の日は3月21日から3月11日に後戻りしていた。400年間に97回の閏年(366日)を設ける事により、1年の平均日数は365.2425日とした。これがグレゴリオ暦の本質である。新教諸国では採用が遅れた。1582年:イタリア、フランス、スペイン、ポーランド 1583年:オランダ 1587年:ハンガリー 1700年:ドイツ、オランダ、デンマーク 1752年:大英帝国、英国自治領 1753年:スウェーデン 日本では明治5年12月2日の翌日を明治6年(1873年)1月1日として実施。丁度4週間のズレを調整した。「安息日の間隔は中断されることなく連続的に行われたことは疑う余地がない」(イタリア天文学者 ジー・スキャバレリ〈1835-1910〉著「旧約の天文学」)。


18.  1999年にローマ歴とエジプト暦の両方の日付が記載されたBC24年当時の暦が発見された(閏年の置き方の調査で)。グレゴリオ暦が使われるまではコプト暦(エジプト暦)の新年はユリウス暦の8月29日。コプト暦とは古代エジプト暦に起源を有しコプト正教会で使われていた。これはナイル川が増水する時期にあたり、農事のサイクルに対応している。因みにコプト暦とエチオピア暦は同じ。ビザンチン暦9月1日だった。

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