2017年7月9日日曜日

聖書研究「日曜日礼典の起源」

日曜礼典の起源

1.       日曜日礼典の慣習は、元々、異教徒の間に起こったものである。日曜日(Sun-Day)は太陽礼拝の日である。選民イスラエルを除く異教の諸国で太陽礼拝はいろいろの形式で広く一般に行われていた。聖書にも太陽崇拝の例を多く見出すことが出来る。エジプトのファラオはその一例である。異郷国に取り囲まれたイスラエルは、しばしば、その危険な影響下に置かれたが、安息日を順守する間は太陽礼拝の誘惑から守られた。

2.       キリストの復活・昇天以後、100有余年間、キリストの使徒・弟子たち・初代教会は父なる神とキリストに愛と忠誠を堅持した。新約聖書を記録した使徒や福音書記者たちは安息日の変更について一言半句も言及していない。

3.       紀元150年頃、日曜日を「主の日」と称した最初の人物はアレキサンドリアのクレメンツである。この日を正しい礼拝日として説明を加えた人はユスチノスである。ユスチノスは「ユダヤ人が頑迷だから安息日が与えられた」と歪曲している。安息日を土曜日から日曜日に変更した経緯は、当時の歴史的背景があった。ローマ帝国は、しばしば反乱を起こすユダヤ人に手を焼いていた。そこでユダヤ人を撲滅する簡易手段は土曜日に礼拝を守る人々を急襲することであった。キリスト教徒の中には頑迷なユダヤ人と同一視されることを嫌悪する人々もいた。そこで、彼らとの違いを明らかにするために、主イエス・キリストの復活日である日曜日を礼拝日とした。初めは土曜日と日曜日の両方を守っていたが、次第に日曜日を重視していった。キリストの復活こそが神のみ子イエスがメシアである強力な証拠だとし、日曜日を「主の日」または「聖日」とする大義とした。

4.       ローマ皇帝の中には皇帝を神として奉るように皇帝礼拝を強要する者が出てきた。安息日を厳守するユダヤ人は偶像礼拝に等しい皇帝礼拝を拒否し、迫害を受ける事になった。神に忠実なキリスト教徒も例外ではなかった。「人間に従うよりは神に従う」(使徒行伝5:29)クリスチャンは迫害を受けた。初期キリスト教会教父テルトリアヌスが「キリスト者の血は種である」と言ったが、迫害されればされるほど、キリスト教徒は増えるばかりであった。キリスト教徒の中には、ローマ皇帝から嫌悪されているユダヤ人から、自分たちは違うのだという新たな信条を創り出した。それが日曜日を礼拝日として承認する傾斜を辿った。キリストの復活はキリスト教の本質を示す歴史的重大事項であることに違いないが、聖書のどこにも日曜日を礼拝日とする神の啓示はない。含みさえもない。

5.       歴代の皇帝の迫害にもかかわらず、キリスト教徒はますます増大し、4世紀初めの、ディオクレティアヌス帝による大迫害のあと、もはやキリスト教徒を敵としてはローマ帝国の統一は困難であると悟り、キリスト教徒の団結を帝国の統一に利用した。それがキリスト教をローマの国教として公認したコンスタンチヌス帝である。当時、西の副帝であったコンスタンチヌス帝は、6人と帝位を争っていたが、順次これらを破り、特にイタリア半島を支配していたマクセンティウスとの戦いの際、天に十字架が現れ、「汝これにて勝て」という文字を見たと証言し、それを旗印に戦って勝利を得たので、翌313年にリキニウス帝とミラノで会見し、属州総督あての書簡の形でキリスト教の信仰を公認した。これが有名な「ミラノ勅令」である。その後379年に皇帝となったテオドシウス1世は、380年にアタナシウス派キリスト教を国教とし、392年には他の宗教を厳禁とした。

6.       コンスタンチヌス及びテオドシウス1世によりキリスト教はローマの国教となった。コンスタンチヌス帝が本気でキリスト教を信じたのではなく、あくまでも政治上の戦略からであった。拡大するキリスト教を彼の支持基盤にすることが目論見であった。ローマ人の間には、いくつかの神々の形態があった。その中でも中心的な宗教はミトラ教(元来はペルシアの宗教で”光の化身”を意味した。ローマでは太陽神としていた)である。ローマ皇帝は太陽礼拝の祭司である。キリスト教とミトラ教の信者の両方にいい顔をして執り成す祭司ともなった。キリスト者は、もはや肯定礼拝にかかわる迫害を受けずに自由に信仰生活を営むことが可能となった。しかし、この事がキリスト教徒にとって罠となった。太陽礼拝に伴う異教的な思想と習慣がキリスト教に混入したのである。偶像礼拝(キリスト像、聖母マリヤ崇拝、聖人礼拝、遺物礼拝など)、善行による救い(功徳を積むこと、御利益)、日曜日聖日、霊魂不滅、永遠地獄、聖書よりもミサ中心等々がイエス・キリストを見上げる福音からすり替わってしまった。太陽礼拝では、日曜日が毎週の礼拝祭日であり、最大の祭典は冬至(日照時間が最も短く、その日からだんだん長くなるが、これを太陽の王子の誕生並びに成長と見做された)である。これが12月25日に定められ神のみ子の生誕にすり替わり、クリスマスと称された。コンスタンチヌス帝は紀元321年、日曜休業令を帝国内に発布した。「裁判官、都市住民並びに工人はすべて日曜日に休息すべし。しかし、農民は、農耕地で働くことを自由にする。何となれば、種まきや葡萄の木の植え付けは、他の日にできないことがあるからである。機会を失って、神のお与えになる恵みを失うことがないようにとの意である」。この記述にあるように、彼の法令発布の目的は、キリスト信者からの支持を受け、太陽神をも崇めることにあった。彼の実質は皇帝の職位であるミトラ教の祭司であった。彼の時代の貨幣の表にはChristと刻まれ、裏にはSol Invictus(無敵太陽)と刻まれていた。

7.       当時、ローマ帝国のおひざ元にあったローマ教会の監督シルベスターはカトリック教会の主権的象徴であった日曜日を高揚するために、教会は喜んでコンスタンチヌス帝の法令と異教的礼拝日を受け入れた。2世紀半ばからユスチノスやクレメンツによって復活日としての位置づけが構築されてきた日曜日聖日は、4世紀においては、カトリック教会が世界的教会としての地位を確立する目的をもって、太陽礼拝が普遍的になっていた世界への宣教を有利にする機会としてこれを歓迎したのであった。コンスタンチヌス帝の法令と教会の日曜礼拝採用は、キリスト教が異教と妥協した場所を指示した。紀元364年、カトリック教会の高位高官のすべてはラオデキヤ会議に参集し、「安息日に休むことを禁じ、日曜日に休むことを命令」する教会法令を発布した。「キリスト教徒は安息日に休むことによってユダヤ化してはならない。その日には労働しなければならない。少しでもユダヤ化している所が見つかるならば、つまり安息日を順守するなら、キリストより切り離された者、呪われた者と見做さなければならない」。この会議の宗規は、帝国内の全教会によって採用された。カトリックの教会会議は、すべて法王の権威によって確認されてきた。「法王は、法令に服従するのではない。何となれば、法王が教会のために良いと思えば法令を修正することも無効とすることも出来るからである」。法王性の所産であることの最も著しい証明は、カトリックが第7日目の礼拝日を日曜日に変更したことである。この歴史的事実こそ彼女の権威の証であると明言している。
ローマカトリック教会の信仰問答は次のように述べている。
問  安息日は何曜日であるか?
答  土曜日が安息日である。
問  われわれが土曜日ではなく日曜日を守るのはなぜか?
答  カトリック教会がラオデキヤ教会会議において土曜日の代わりに日曜日を守ることを定めたからである。

8.       カトリック枢機卿ギボン氏は、「聖書を創世記から黙示録までをつぶさに読んでも、日曜日の聖別を証明する聖句を唯の1行でさえもあなたは見出し得ないであろう。聖書は土曜日の宗教的旬報を力説している」と認めている(「我らの信仰の父」89頁)。
9.       バプテスト教会牧師ヒスコック博士は、「安息日が第7日目より週の初めに移されたと、ある種の誇らかな響きをもって容易に言い切ることが出来であろうか。どこにそのような変更の記録を見出されるか。新約聖書中には見いだされない。決して見いだされない」(「N.Y.イグザミナー」1893年11月16日)。
10.  後日に続く。

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