2017年7月19日水曜日

安息日の意義

キーノート:「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言葉は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。神の安息に入った者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」(ヘブル人への手紙 4:12910

瞑想:「人間の、神と共に歩む歴史は、創造週の第1日ではなく第7日すなわち安息日
にはじまったのである。われわれは、安息日を、神との関係に生きた最初の日として理
解しなければならない。神は、われわれの経験や思想や計画や生活において、まず、最
初に迎えるべきお方である。」(サカエ・クボ著「神との出会い」18,19頁)

1.    アダムとエバは六日目の最後に造られた。そしてすぐ第7日目に入る日没。彼らが迎えた最初の朝は安息日の朝。彼らが目覚めて目にしたものは、神の創造なる壮大な大自然であった。人間の手の業はまだ何もなかった。彼らは神のみ業を瞑想して人類歴史の第1日を過ごした。被造物に対する無限の愛、配慮、思いやり、秩序と調和の世界、地球を覆うすべては神の知恵だけであった。見るモノすべてが神の愛を物語っていた。わたしはフィリピンのボラカイ島の透明度の高いサンゴ礁に魅了されて半日中も潜っていたことがある。美しい自然を見る時、わたしたちは天地創造の時は一体どんな世界だったろうかと思ってしまう。重要ポイントは、人類誕生前に永遠の創造者がおいでになることである。人のわざの前に神のみわざがある。

2.    安息日は人類歴史の出発点である。神のみ業を見る事からこの世界が始まった。これが、聖書全体を通して教えている救いのかたちである。まず神を仰ぎ見る。これが信仰による義である。イザヤ45:22に、「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎ望め、そうすれば救われる」。これは福音の基本原理であり中心教義である。

3.    安息日の意義

   創造の記念日―被造物は創造主によって依存した。爾来あらゆる存在は固有の力によって存在しているのではなく創造主に依存する存在なのである。イエス様はそのことを「ぶどうの木と枝」の関係に例えられた。枝に葉っぱや花やぶどうの実がつくのは、木の幹につながっているからである。世界に誇る日本の新幹線も、電力の源に結ばれていることによって目的を果たし得る。

   贖いの記念日―出エジプト記20:3~17にモーセを通して与えられた十戒が記述されている。第4条の戒めは安息日に関するもので、そこでは創造の記念日として表現される。申命記5:12~15には、もうひとつの十戒が記される。前記とまったく変わらないが、面白いのは第4条の安息日の理由が創造の記念日としてではなく、贖いの記念日として述べられる。創造の記念日と贖いの記念日は同じ方から出るのである。贖いは再創造という意味では創造と同意を示す。「神がその創造のみわざを終えられたのは、創造の六日目であった。同様に、キリストがそのあがないの働きを完了されたのは、受難週の六日目であった。」(サカエ・クボ著「安息日と再臨」50頁)。主はご自身の命令を、安息日を墓でお休みになられることによって批准された。

   交わりの日―エデンの園で、アダムとエバは二つの制度を神から受けた。安息日と結婚である。安息日は縦の交わり、結婚は横の交わりを意味した。十字架がその象徴として表されることがある。神との交わりを通して人はから癒しと赦しと回復と新たな力とが与えられる。受肉の約束がここに暗示されていた。キリストご自身の中に神性(タテ)と人性(ヨコ)との永遠の結合がある。安息日の交わりの経験を通して、我々は、安息日の主であるキリストにおいて揺るぎない神との結合を見る。7日目ごとの礼拝を通して、人は未来に与えられる完全な交わりの前菜を経験する。神の臨在の中に留まることが人類にとって未来永劫の祝福である(出エジプト記25:8、マタイ123、黙示録21:3~4)。天国を先取る経験である。現代人は、お茶の間で、人間性を破壊するさまざまなニュースを日々聞く。終末的社会状況に取り囲まれている。エジプトを襲った無数のかえるは台所や寝床にまで侵入して人々を悩ましたが、我々の生活の中に罪文化のニュースや知識が隙間なく入り込んでくる。「安息日がなければ、我々はきわめて容易に自らの人間性を失ってしまう」(同上54頁)。

   道徳の基礎―十戒の中の「父母を敬え」「殺すなかれ」「偽証するなかれ」は、誰もその理由を追い詰めて問わない。未信者でさえ、それは社会ルールの常識または当然だと考えているからである。その基準は他の人に迷惑をかけないという事だ。だから安息日は道徳に無関係だと見做している。守ろうが守るまいが他人に迷惑をかけない。同性愛も両者の同意に基づき、他人に迷惑をかけない、とする考え方から社会的容認の方向に進んでいる。
戦後わが国の教育の土台に進化論教育がある。戦前の宗教的押し付けが反面教師的モデルになったことは否めない。宗教は本質的に押し付けであってはならない。押し付けは必ず人間性を否定する。進化論の前提は偶然である。わが国の子供たちは棚ボタ式に進化論教育を受ける。科学は実証主義の上に成り立っているはずである。進化論は実証された科学として教えられる。しかし、実証を経たわけではない。推測の域を出てはいない。「…と考えられている」という言葉が使われることもあるが、大抵は実証科学のように語られる。ここでは進化論を解明する頁はない。進化論を道徳的に捉えるならば、偶然が出発点なので、それは意味がないことを伝える。つまり、人生には何の意味もないことを暗黙のうちに教える。極端に言えば、無神論者は刹那的に生きるほかはないのである。今日、低年齢の少年犯罪が増加の一途をたどっているが、そのことと無関係ではなさそうだ。人間は意味のない人生に耐えられない。人は皆そういうわけで自分なりの価値観、あるいは社会通念から出た価値観、自己満足的な意味を創り出して生きるのである。
日曜日を礼拝日とする教会は、主が日曜日に復活なさったことを根拠に礼拝日を変更した。キリスト教を歴史的に神学的に重要と位置付けられた。キリストの復活は確かに重要である。使徒たち、弟子たちの証言は歴史的に確かであり豊かである。キリスト教が天の啓示に基づくものとして決定的でさえある。しかし、その変更は啓示(聖書)に基づくものではない。申命記4:2には、「わたしの言葉に付け加えてはならない。減らしてもならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである」。と言われている。日曜日に変更したという事は、神の言葉に人の手が加えられた、と言うことである。
(例話)大きなビジネスを営むある男が数か月間海外へ出張することになった。その間、息子に新しい屋敷を建てるよう命じて設計図を渡した。息子は父の作成した設計図を見て感銘を受けた。父の設計通りに事を進めた。しかし、1所だけ首を傾げるところがあった。それは大きな屋敷全体から見て些細なことと考えた。父の設計では井戸の場所が畑の側にあったが家に近い場所が便利だと思った。それ以外は全く父の考え通りであった。帰国した父は新築を完成した屋敷を見た。すぐに1ヶ所違っていることが分かった。息子にそのことを問うと息子は言った、「お父さん、わたしはお父さんの設計通りに全うしました。確かに井戸の場所だけを変えましたが、それは家に近い方が利便性が良いと考えたからで、全体はお父さんの設計通りです」。すると父は彼に言った、「これはわたしの設計ではない。お前の設計だ。全体は父の設計だというが、お前は1ケ所だけ気に入らなかった。他にもあればそこも変えたであろう。これはわたしのではなくお前の設計だ」。
安息日の道徳的価値は、これがあらゆる道徳の土台であり、道徳の出発点である。なぜか?神の啓示には人の考えが及ばない領域(その方が大きい)を含む。健康に関する知識は私達人間よりも神の方がはるかにご存知である。わたしが神を信じた時、食生活についても神の聖書に従った。神のお言葉には理解ができない部分が多くあったが、わたしは自分の知識や経験に問うことをしなかった。自分の理性よりも神の全知全能を信じたからである。信仰による道徳は神のご計画に到達するであろうと確信している。

   信仰による安息―ヘブル人への手紙4章は、安息日に意図された信仰による義のことが語られている。体を休める以上の事が語られている。人によっては仕事をしている時の方が心は休まるという人もいる。ここでいう休みは何かをやめるというよりは、神に心を向けるために休むということである。神に信頼する事による平安である。ヘブル4:2を見ると、神の言葉は、信仰に結びつけることが大事だと言っている。安息日が祝福として受ける最大の意味は、【信仰によって・・】である。新英語訳では、彼らは「福音を聞いたけれども、信仰を混入しなかった」とある。出エジプトを果たしたイスラエル人は、数週間を経てまもなく、約束された「乳と蜜の流れる地」カナンに入るはずであった。事前に12人の調査隊が組まれ、約40日間をそのために費やした。しかし報告は大きく二つに分かれた。カレブとヨシュアは前進しようと言った。他の10人は、かの二人とまるで異なる意見だった。カナンの人々は巨漢で、自分たちは子供のようだと言った。両者の最大の違いは、見るところが違っていた。カレブとヨシュアは神のなさる力強さを見、他の10人は敵の強さを見た。カレブとヨシュアの視線は天に向けられ、他の者たちは地上を見、自分たちの弱さを見た。二人にはゆるぎない平安が宿っていたが、他の10人には恐れがあった。神への信頼が欠けると平安は訪れない。荒野を旅したイスラエル人が、神の安息に入れなかったのは、安息が用意されていなかったからではない。神の安息は、創造のみ業が完成して以来、ずっと備えられていた。今も継続している。信仰と従順をもって神に心を向ける者は、神の休みにいつだってあずかることができる。荒野を行くときでも安息にあずかるのである。安息日は神への信頼の日である。「静まってわたしこそ神であることを知れ」(詩46:10)、とある。休むことそのものが出来事(神の創造のみわざにお任せする)である。神の恵みの時なのである。アダムがただ完成した神の創造を瞑想したごとく、今我々は、安息日にただ救われた事実を思い起こし、神の恵みの介入に対し、自分を明け渡すことである。すべては神から出ており、神によって支えられ、神に帰するのである(ローマ人への手紙11:36)。

   魂の休みー黙示録14:6~12に、終りの時代に安息日が回復するというメッセージが含まれる。御利益宗教と呼ばれるものがある。手を合わせる礼拝の相手よりも御願い中心である。キリスト教の信心にも似た例がある。「困った時の神頼み」的な自己中心的傾向は人間の悲しい性(さが)なのであろうか。創造主を伏し拝めという命令は、安息日の回復に関係している。安息日は信仰による義そのもの、神のみわざを見る事から始まった。セブンスデー・アドベンチスト教団の長い名称について書いておこう。「セブンスデー」は第7日目、神を仰ぎ見る人々の礼拝日だが、「神を仰ぐ」のは第7日目だけではない。日々の信仰スタイルのピークがそれである。神を仰ぎ見続けた歴史の先には何があるか?それが「アドベンチスト」(神を待ち望む人々)の希望キリストの再臨である。これが信仰による義の実現である。信仰の中心にいますキリスト、信仰の土台であるキリスト、「十字架のキリスト、語れ、祈れ、歌え」。これがセブンスデー・アドベンチストのメッセージである。獣の刻印を受ける者は、昼も夜も休みが得られないとある。神を度外視する人の魂は真の安らぎを得ない。キリストは、「すべて重荷を負うて、苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われた。魂の運命を決定的に支配しておられる造り主の言葉である。


   神の印ー黙示録14:1「その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」“144000人”は限定された数字のことではない。聖書では、しばしば数字は性質を表す。それは神に信頼を寄せる者たちの品性を現す。彼らは子羊の行く所へはどこへでも着いてゆく人々である。他の箇所では、彼らの額に神の印が押されている、とある。ホワイト夫人によれば、人が神と交わる身体の部分は頭脳である、と言うことである。「五日でタバコがやめられる」の考案者マクファーランド先生は、額に記される印の場所は前頭葉である、と語られた。前頭葉は、人の意志と理性と精神の働くところである。人は神のかたちに造られた。何が神のかたちか?選び、判断し、決定を下す自由意志である。人は子供の頃から、毎日意志決定を繰り返す、その積み重ねの上に人格が築かれる。父と子羊の名が記されるとは、意志決定を神に向かって下す人のことである。「ただ必要なのは本当の意志の力とはなんであるかを知ることであります。意志とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力であります」(「キリストへの道」EGホワイト著 57頁)。神の御言葉は、神ご自身と同じく、人間の理性では計測不能の領域が広いのである。「鰯の頭も信心から」という妄信では決してない。神は聖書を信じるだけの十分な根拠を与えた上で、神を信じるよう招いて下さっている。有限な人間の、あるいは私の理性や経験や直観によって自己の納得に基礎を置いた信仰ではなく、無限の神に信頼を置くことが求められる。信仰による神の意志によって決断する時、神の印が刻まれる。神の印は神のかたちであるキリストのご品性の写しである。

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